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明治元年創業。北限の茶処である新潟県村上市で、400年続く村上茶の伝統を守り続ける。100年の時を経て村上茶葉を使用した和紅茶づくりを復活させ、村上茶の魅力を伝えている。

冨士美園 栽培から販売まで顔の見えるお付き合いが、老舗茶屋のやりがい

雪国の茶畑から生まれる銘茶「村上茶」

村上茶は、ご当地緑茶として長年親しまれている銘茶の一つ。生産地である新潟県村上市は、例年冬の時期には多く積雪する地域で、茶畑もその例外ではなく、一面が雪に包まれる。本来、お茶の樹は温暖な場所での栽培が適している。しかし、村上市の気候風土は、数ヶ月間降り積もる雪と短い日照時間のため、お茶栽培に適しているとはいえない。そのような環境の中でも、村上の人々は長い年月をかけ、たゆまずお茶の栽培を続けた。その努力の甲斐あって、新芽を出し続けた村上の茶畑は、雪に包まれることが逆に功を奏し、よりまろやかで甘みのあるお茶を生み出すことに成功。全国的な「銘茶」としても受け継がれてきたのだ。村上茶の歴史が始まってから400年。雪国新潟の厳しい気象条件を味方にした栽培技術は、世代が変わった今でも磨かれ続けている。

明治元年創業の冨士美園と6代目の決意

冨士美園は明治元年から続くお茶の専門店。現在は先代が店内でお客様を温かくお迎えし、6代目の剛志さんが主に栽培・製造を行っており、親子二人三脚でお店を営んでいる。冨士美園のこだわりは、栽培から販売までの全てを自らの手で行う、ということだ。「手間暇かけてできたお茶を直接お客さんに飲んでもらえる。反応が分かるから、次に繋げられるんです」。 剛志さんは、元々お茶の世界に入るとは思っていなかった。しかし、自身が20歳の時、それは、先代5代目が店を継いだ時のこと。前代から残されたのは60ヘクタールの荒廃した農園だけだったという。「その光景を目にした時、いつかこの荒廃した農園を蘇らせ、お店を継ごうと決意した」と語る。この世界に生きると決めた心は揺らぐことなく、日本茶インストラクターの資格を取得。若手を中心に村上茶研究会を立ち上げるなど、意欲的に活動している。お茶に全霊を注ぐ日々の中、ある日、剛志さんは村上ではお茶づくりと共に紅茶づくりの歴史があったことを知る。「村上に和紅茶の歴史を復活させる」。剛志さんの新たな挑戦が始まった。

冨士美園の考える村上紅茶『雪国紅茶』の誕生

そもそも和紅茶は、日本茶(緑茶)と同じ国産茶葉から作られることから、「和」という名を頭に持つ。その昔、村上でも村上茶葉を使った和紅茶づくりが行われ、明治時代には本流の村上茶と共に、アメリカやロシアに輸出がされていたという。しかし残念なことに、当時盛んに生産されていた村上紅茶は世界情勢の渦と共に姿を消し、忘れ去られてしまったのだ。 それから100年。剛志さんの手で紐解かれ、村上での和紅茶づくりが復活。村上茶が本来持つ「渋みは少なく、ほのかな甘み」という魅力はそのままに、「安らぐ香りと、まろやかさ」を併せ持ったのが、村上紅茶の大きな特徴。特に冨士美園では、「雪国の新潟でもお茶の栽培ができる」という思いを込めて、その名を『雪国紅茶』として商品化を実現した。紅茶でありながら和菓子にもよく合うと人気であり、様々なシーンで活躍する『雪国紅茶』は、全国で愛される次代の銘茶となっていくことだろう。

  • 冨士美園
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生産者紹介

6代目:飯島剛志さん
6代目飯島剛志さん

冨士美園6代目当主。平成7年に5代目の久さんが、前代から家業を引き継ぐことをきっかけに、20歳の時に6代目としてお茶の道を志した剛志さん。浅草の茶舗に3年間、その後静岡県茶業試験場で2年間修行を積む。荒廃した農園を緑茶の育つ環境に見事復活させた若き当主。現在は茶師(ちゃし)として、製造から販売までを自らの手で精力的に行う。日本茶インストラクターの資格を持ち、地元では茶ムリエ(ちゃむりえ)の講師としても活躍している。また、新潟県村上茶手もみ保存会として、全国手もみ製茶技術競技大会で最優秀賞を受賞。確かな知識と技術は、若手ながら茶処村上を牽引する勢いである。冨士美園が創業150周年を迎えるにあたり、新たな挑戦に意気込む剛志さん。日本茶だけにとどまらない、剛志さんが創っていく村上の新たなお茶文化に注目が集まる。

店舗詳細

店舗名称 冨士美園
住所 新潟県村上市長井町4-19